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Posted by - 2024.04.19,Fri
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Posted by 一平 - 2011.02.19,Sat
2月11日は太平洋の奇跡の封切りであった。本もこの日から販売した。すでに、日本テレビやフジテレビ、NHK、朝日新聞、中日新聞、東海日日新聞では出版されることを放映、記事にしてくれていたので、翌日の12日、13日に蒲郡市勤労福祉会館で行われた、「大場栄と峯子の戦火のラブレター展」は開演と同時にとぎれることなく多くの人が訪れてくれた。
パネル展示を紹介しておこう。

開催にあたって
大場栄と峯子は共に愛知県蒲郡市出身で、栄は豊橋市吉田方小学校、(峯子は後に三谷町立三谷小学校)の教師をしていましたが、栄は1937年に妻峯子と一人息子を残して日中戦争に徴兵されます。一、二年で終結すると思われた戦争は1945年まで続きます。  二人は手紙を綴ります。栄は中国大陸での数々の戦闘の経過を、妻も戦時下の様子を週に一度7年間送り続けました。手紙は千通以上あったと思われますが、峯子は亡くなるまで、二人の手紙を大切に小箱に入れてしまってありました。  二人の手紙は大場栄のサイパンでの活躍が2011年2月に東宝映画「太平洋の奇跡」として映画化された時に発見されました。  手紙は二人のロマンスを中心に赤ん坊の成長記録をおり交ぜながらユーモラスに描かれいます。どこでデートし、初めて口吻をした想い出、二人はかつての幸福な想い出をまさぐりあいます。遠く離れた日本と中国から月や日蝕を眺め、互い に「見ているかい?」と手紙でやり取りする描写等は、とても詩的でロマンチックな内容になっています。  戦争中、夫婦の交わした手紙は多く紹介されていますが、一般に戦地の夫が妻に送ったものが多く、二人の手紙が長期間にわたり残っているのは珍しいと思われます。また、二人の手紙は当時の様子が具体的なドキュメンタリーのようになっていることにより、昭和12年から18年までの日中戦争時期の時代背景を知る一級の歴史的価値のあるものとなっています。  戦争が二人の愛を裂き、悲しみと不安に満ちた日常生活を強いられることが二人の手紙から感じられることと思います。  そのような意義とは別に、当時の二人の愛に溢れるラブレターを読まれることだけでも、この展覧会をご覧になる意味があると思います。続く
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Posted by 一平 - 2011.02.19,Sat
2月11日は太平洋の奇跡の封切りであった。本もこの日から販売した。すでに、日本テレビやフジテレビ、NHK、朝日新聞、中日新聞、東海日日新聞では出版されることを放映、記事にしてくれていたので、翌日の12日、13日に蒲郡市勤労福祉会館で行われた、「大場栄と峯子の戦火のラブレター展」は開演と同時にとぎれることなく多くの人が訪れてくれた。
パネル展示を紹介しておこう。

開催にあたって
大場栄と峯子は共に愛知県蒲郡市出身で、栄は豊橋市吉田方小学校、(峯子は後に三谷町立三谷小学校)の教師をしていましたが、栄は1937年に妻峯子と一人息子を残して日中戦争に徴兵されます。一、二年で終結すると思われた戦争は1945年まで続きます。  二人は手紙を綴ります。栄は中国大陸での数々の戦闘の経過を、妻も戦時下の様子を週に一度7年間送り続けました。手紙は千通以上あったと思われますが、峯子は亡くなるまで、二人の手紙を大切に小箱に入れてしまってありました。  二人の手紙は大場栄のサイパンでの活躍が2011年2月に東宝映画「太平洋の奇跡」として映画化された時に発見されました。  手紙は二人のロマンスを中心に赤ん坊の成長記録をおり交ぜながらユーモラスに描かれいます。どこでデートし、初めて口吻をした想い出、二人はかつての幸福な想い出をまさぐりあいます。遠く離れた日本と中国から月や日蝕を眺め、互い に「見ているかい?」と手紙でやり取りする描写等は、とても詩的でロマンチックな内容になっています。  戦争中、夫婦の交わした手紙は多く紹介されていますが、一般に戦地の夫が妻に送ったものが多く、二人の手紙が長期間にわたり残っているのは珍しいと思われます。また、二人の手紙は当時の様子が具体的なドキュメンタリーのようになっていることにより、昭和12年から18年までの日中戦争時期の時代背景を知る一級の歴史的価値のあるものとなっています。  戦争が二人の愛を裂き、悲しみと不安に満ちた日常生活を強いられることが二人の手紙から感じられることと思います。  そのような意義とは別に、当時の二人の愛に溢れるラブレターを読まれることだけでも、この展覧会をご覧になる意味があると思います。続く
Posted by 一平 - 2011.02.18,Fri
 ●編集の悩み

 手紙の編集には頭を悩ませた。私は当初、前書きに時代背景や二人の紹介、簡単な注釈を書くだけで、後は年代順に(プライバシーに関することは避け)手を加えずにそのまま掲載するだけでいいのではと考えていた。

 しかし、最初に大きな問題にぶつかった。

昭和17年8月の大場栄は妻みね子に「上陸以来約五ケ年間に君からの便りも何百通になる事と思うが、此れは焼却しようかと考へてゐる。便りだけ一寸程の厚さ二冊になっておるが持ち運び困難なり」と送っている。

 幸いにも焼却されなかったが、双方の手紙は一週間にごとに書かれていた。栄は万年筆や鉛筆で、みね子は万年筆で綺麗に清書されたものや、洞窟や駅の待合室で走り書きのようにしたものなど読みとれない文字もあった。それぞれ便箋に四枚ほどの量であった。発見された手紙数は相互で六百通ほどであったが、 読み解く作業は困難を極めた。

 多くの手紙が年月日、特に年が記載されていないことであった。頼りになるのは子供の成長時期とお祭りの様子、家族関係、転々とする栄の戦地報告、春夏秋冬の挨拶、戦時一色に変貌する蒲郡の町の様子これらバラバラになったモザイクの様な文面を重ね合わせるには多くの時間が必要であった。

 約3ヶ月かかって何とか年代順に並び替えることはできたが、その量は、単行本として三冊を超す膨大な量になることであった。

これでは購入する人も、読む人もいないだろうと推定された。思いこみのある編集者の落とし穴である。手紙に親しんでいくうちに、抜粋ができないようになる。これも重要、あの記録は将来役に立つかも知れない。切るに切れない苦闘が続いた。     

Posted by 一平 - 2011.02.14,Mon

サイパンを訪れるとアメリカの墓地が整然と整備されていることにびっくりする。それは日本の犠牲者への対応と比較できてしまうからなお一層深刻に感じてしまう。国に徴兵され、国のために死んでいった日本の兵士への対応があまりにも粗末であるからだ。何よりも遺骨収集は不完全であるだけでなく、決定的なことは戦死者の数字を公式に発表できないことだ。
 誰が、どこで、どうやって死んでいったのか、本格的な調査はされていない。大場栄の自宅には昭和20年8月に死亡通知が届けられる。そこには昭和19年9月にマリアナ周辺で死亡と書かれていた。周辺とはどこのことだろう。そのころもそれ以降も大場栄はサイパンでアメリカ軍と戦い続けていた。大場栄は運よく帰還できたが、サイパンで犠牲になった兵士は同様な通知のままで、60年経った現在も何処でなくなったか知らされていない。だから、サイパンに正式な犠牲者数を表記した墓標を建てることができない。それが数千なのか数万人なのかあいまいのままである。あいまいなのは帰還した将校への評価もそうである。
敗戦後の世論は軍国主義批判一色であった。主要都市が焦土と化し、何百万人もの犠牲者を出した戦争責任を軍首脳だけでなく、将校から捕虜になった兵士にまで冷たい視線がかぶせられた。そのため大場栄始め多くの帰還者は戦争について語ろうとしなかった。口を開けば、お前達が悪い、と犠牲者の遺族からは罵声を浴びたかも知れない。
映画「太平洋の奇跡」の原作者ドンジョーンズはそのことにびっくりしている。彼の「タッポーチョ」前書きには次のように書かれている。

「戦後生まれの日本人は戦争についてあまりにも知られていない」「自分たちの父や祖父達が、自分の国を守るために戦った精神について、なにも知りませんでした。もっと驚いたことはその人達がしたことに何の尊敬の念も払っていないことです」。

1987年に出版されたこの本はドンジョーンズの期待したように売れなかった。まだ、早かったのである。

  誰もが寡黙になり、時は経ち、歩兵十八連隊もサイパンの悲劇も遠く忘れさられた時、もっとはっきり表現すれば、戦争体験者がごく少数になった時に、大場栄は再登場できた。商業ベースを念頭に置いた映画化はそのことを現していると思う。大場栄を「凄い」「格好いい」と新しく評価できる観客が育っていると踏んだのだろう。これは一面、軍人大場栄を「凄い」「格好いい」と戦時中に感じたドンジョーンズに近づいたとも言え、軍国主義教育を払拭し、戦後民主主義教育の成果だとも言えなくはない。

 なぜ、玉砕や自決を選択したのか、特攻隊を拒否できなかったのか、今では誰もが考える素朴な疑問である。

 戦争体験者が少なくなり、冷静に時の兵士の立場を考えるのに65年の月日が必要だったかもしれない。

 しかし、その期間は戦争というものに、戦争という言葉を避け、語り継ぐという作業を古くさく、「ださい」ものという意識を増長させてきたことも否定できない。格好いいことは軽いことで、深く考える事とは違う。

 私は「大場栄・みね子の戦火のラブレターについて」を戦争体験を語り継ぐ一つの素材にしたいと、東愛知新聞に寄稿した。新聞社は快諾し、平成22127日から四回に分けて掲載してくれた。反響はわからないが、私の身近な声からは、「戦争を語り継ぐ」という表題や文字ばかりの文面、「日華事変」とか「昭和十何年」と単語を見ただけで読まないのではないだろうかという感想を述べてくれた人がいた。その指摘にはうなずかざるを得ない。   つづく

 

Posted by 一平 - 2011.02.07,Mon
 ●日本人の戦争意識

 それは日本人のこの戦争に対する意識の問題であった。ジョン・ダワーは豊富な資料で敗戦後の日本人の変わりゆく意識を様々な事例をあげて詳述している。その中で、米軍占領下、日本が平和憲法の下、民主化政策を進める中で、軍隊組織や軍人特に将校に対する見方が百八十度変わったいったことをあげている。

 読みながら、同行者の一人が大場栄が頭を下げて軍刀を手渡す写真は日本人には抵抗感があるのでは?と言った言葉が蘇ってきた。

そのことは、後日、豊橋在住の90歳になるサイパンからの帰還者の話を伺ったとき、一層感じるようになった。

 サイパン帰りは帰国してから肩身の狭い思いをしたというものであった。その人はは総突撃命令が出て、「ワー」と突撃したものの足を撃たれ、倒れている所を米軍に保護され、三年間アメリカの捕虜収容所に収容されて日本に帰国した兵隊だが、帰国後同郷の犠牲になった遺族から、「玉砕で全滅したのに、あんたは狡(ずる)をしたのでは」と陰口を浴びたというのである。将校の場合はもっとひどく、部下の遺族が訪ねてきて、「隊長のお前が五体満足に帰還したのはどういうことか」と、詰問されただろうという。

合わせて、非人道的な軍隊規律や中国などでの残虐行為が全て個々の将校の責任であるかのように責められた。

 玉砕の島サイパンから生きて帰還した将校は、二重の重い荷を背負わされている。戦後の日本は生還を待ちわびた家族達が、その苦しみと怒りをどこにぶつけて良いのかわからない深い悲しみに満ちていたのである。

 大場栄とみね子は愛しながらも共に生活をすることができなかった。栄もみね子も手紙の中で、質実剛健に正々堂々と生きることを書き連ねている。


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