本の出版予定を聞いていたので、彼女たちから色々と質問された。
おじちゃんとおばちゃんはいつ頃から付き合っているの?と最初に聞かれた。
私は1941(昭和16)年9月にみね子が栄に宛てた手紙のことを話した。
「栄が1934(昭和9)年に最初の満州からの演習で釜山に寄った時の出した手紙で、栄は『爪が長くなって汚れても切る鋏(はさみ)も無い』と書いてきた。峯子は『あの頃は貴方の爪を切って上げるのをこよなき楽しみにいたし、一本々々に指をどんなに胸をときめかせて握りしめた事でしょう』と書かれているから、栄が19歳の頃から付き合っていたと思う」と答えると「ワァ」と歓声のような声があがった。「二人の手紙はラブラブで、特にみね子の方が情熱的で、読む方が赤面するようなことも書かれている。文章がうまく、こんなに好きな二人を早く結びつけてあげたいと思ってしまう。と答えると、再び「ワァ」と声があがった。すでに70代のおばさん達であるが、身内のこういう話しは大好きだと思った。
息子である久充さんもこの話に加わって、手紙を読んだが、二人の印象がすっかり変わった」と言った。終戦後のみね子は手紙に出てくるお嬢さんのようなイメージではなく、農業で鍛えられた働き者のおばさんという感じであった。栄もそうで、戦場での兵士の姿は全くない普通のおじさんであったそうだ。
私は「一人息子一弘のことを教えて欲しい」と尋ねた。一弘が生後七ヶ月の時に大場栄は徴兵されている。栄にとって戦地に向かう軍用列車に言われたまま小旗を振り続ける一弘がどれ程いとおしかったであろうか。手紙には歯が生えた、這えだした、歩き始めた、お父ちゃんと言えるようになった、軍人の真似をして遊んでいると、どの手紙にもその成長記録が書かれている。子供の成長を戦地の栄がどれ程喜んだか、その喜びは文面にあふれんばかりに感じられた。峯子も一弘が父ちゃんと言えるようになった。歩けるようになったと事細かに綴っている。一人息子を抱くことが出来ず、一弘を自転車に乗せることが夢であった栄が一弘と共に過ごせるようになったのは、一弘は小学校にあがるまえであった。
一弘さんは平成になって亡くなっているためお会いすることは出来なかったが、少年一弘はその後どうなったか、とても興味があった。従兄弟達は「一弘は六歳になって満州海城に引っ越しする時、軍刀を肩に提げて行った」と聞いていた。
そのことは手紙には出てこない。軍刀は将校以上が携帯できるもので、栄は手紙の中で何度も軍刀を失い、新しい軍刀が欲しいと催促している。中国製は切れが悪いから、日本で調達して欲しいというものだ。
峯1942(昭和17)年末、峯子と一弘は新しく満州海上に出来た歩兵18連隊の宿舎に引っ越している。二人は蒲郡から下関、下関から船で8時間かけて釜山に、釜山から海城まで約25時間かけ、寝台車を利用した三日がかりの引っ越しをしている。幼稚園児の一弘が軍刀を背負って汽車に乗ったのである。その一弘が母親と長距離列車に乗ったとは、新しい発見に嬉しくなった。
もう一つ聞きたいことがあった。
峯子の父は三谷町長であった。父は昭和14年に蒲郡から満州に開拓村に移住した家族を愛知県代表の一人として慰問に行っている。帰りに満州名産黒ダイヤの指輪を三人の娘達にお土産としたことが手紙に書かれている。その話しをすると孫である菊江の娘が「あるけど、模造品みたい」と答えた。それでも母の形見として保管されていたのであろう。続く
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