サイパンを訪れるとアメリカの墓地が整然と整備されていることにびっくりする。それは日本の犠牲者への対応と比較できてしまうからなお一層深刻に感じてしまう。国に徴兵され、国のために死んでいった日本の兵士への対応があまりにも粗末であるからだ。何よりも遺骨収集は不完全であるだけでなく、決定的なことは戦死者の数字を公式に発表できないことだ。
誰が、どこで、どうやって死んでいったのか、本格的な調査はされていない。大場栄の自宅には昭和20年8月に死亡通知が届けられる。そこには昭和19年9月にマリアナ周辺で死亡と書かれていた。周辺とはどこのことだろう。そのころもそれ以降も大場栄はサイパンでアメリカ軍と戦い続けていた。大場栄は運よく帰還できたが、サイパンで犠牲になった兵士は同様な通知のままで、60年経った現在も何処でなくなったか知らされていない。だから、サイパンに正式な犠牲者数を表記した墓標を建てることができない。それが数千なのか数万人なのかあいまいのままである。あいまいなのは帰還した将校への評価もそうである。
敗戦後の世論は軍国主義批判一色であった。主要都市が焦土と化し、何百万人もの犠牲者を出した戦争責任を軍首脳だけでなく、将校から捕虜になった兵士にまで冷たい視線がかぶせられた。そのため大場栄始め多くの帰還者は戦争について語ろうとしなかった。口を開けば、お前達が悪い、と犠牲者の遺族からは罵声を浴びたかも知れない。
映画「太平洋の奇跡」の原作者ドンジョーンズはそのことにびっくりしている。彼の「タッポーチョ」前書きには次のように書かれている。
「戦後生まれの日本人は戦争についてあまりにも知られていない」「自分たちの父や祖父達が、自分の国を守るために戦った精神について、なにも知りませんでした。もっと驚いたことはその人達がしたことに何の尊敬の念も払っていないことです」。
1987年に出版されたこの本はドンジョーンズの期待したように売れなかった。まだ、早かったのである。
誰もが寡黙になり、時は経ち、歩兵十八連隊もサイパンの悲劇も遠く忘れさられた時、もっとはっきり表現すれば、戦争体験者がごく少数になった時に、大場栄は再登場できた。商業ベースを念頭に置いた映画化はそのことを現していると思う。大場栄を「凄い」「格好いい」と新しく評価できる観客が育っていると踏んだのだろう。これは一面、軍人大場栄を「凄い」「格好いい」と戦時中に感じたドンジョーンズに近づいたとも言え、軍国主義教育を払拭し、戦後民主主義教育の成果だとも言えなくはない。
なぜ、玉砕や自決を選択したのか、特攻隊を拒否できなかったのか、今では誰もが考える素朴な疑問である。
戦争体験者が少なくなり、冷静に時の兵士の立場を考えるのに65年の月日が必要だったかもしれない。
しかし、その期間は戦争というものに、戦争という言葉を避け、語り継ぐという作業を古くさく、「ださい」ものという意識を増長させてきたことも否定できない。格好いいことは軽いことで、深く考える事とは違う。
私は「大場栄・みね子の戦火のラブレターについて」を戦争体験を語り継ぐ一つの素材にしたいと、東愛知新聞に寄稿した。新聞社は快諾し、平成22年12月7日から四回に分けて掲載してくれた。反響はわからないが、私の身近な声からは、「戦争を語り継ぐ」という表題や文字ばかりの文面、「日華事変」とか「昭和十何年」と単語を見ただけで読まないのではないだろうかという感想を述べてくれた人がいた。その指摘にはうなずかざるを得ない。 つづく
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