●太平洋の奇跡の島 サイパンへ
奇跡はあるのであろうか? 人は時々「奇跡よ、起きろ!」と祈る。ところが、人々の望みはほとんど叶えられない。奇跡は起きないものだからだ。しかし時として起きるのである。
2011年11月奇跡が起きようとしていた。チリの鉱山で生き埋めになった抗夫33人がいつ生還できるか、世界中が固唾をのんで注目していた。そのニュースを聞きながら、70年前に奇跡が起きたという現場サイパンに向かった。
大場栄のサイパンでの活躍が映画化されることになり、例年行われている大場家の「いとこ会」がサイパン行きとなり、私はそれに合流したのである。
サイパンは日本民族が東北系、南洋系、大陸系と区分されるときに、南洋の人々がマリアナ諸島と呼ばれる島々をわたりながら日本に辿り着いただろうと思われる島々の日本に一番近い島である。戦前は日本を代表するサトウキビの生産地として多くの日本人が移り住んでいた。
この島が第二次世界大戦終盤に重要な位置を占めることになった。将棋で言えば「王手」で、島がアメリカ軍のものになるか、日本軍が占拠し続けるかが、後の勝敗を決する決定的な「駒」となった。
アメリカ軍はB29という大型爆撃機を製造しつつあったが、まだ飛行距離が短かった。日本本土で空襲を行い、Uターンして戻る飛行場基地が必要であった。グァム・サイパンから発進できれば日本本土を空襲し飛行場に戻ることができた。
日本軍首脳もそれを予想し、これらの島を、太平洋の防波堤と名付けた。地図を見ると、南太平洋から大波になって押し寄せるアメリカ軍をこの島々が堤防の役割を果たすだろうと考えた当時の日本軍首脳部がよく理解できる。
グァム・サイパン島は何をおいても死守しなければならなかった。しかし、日本軍は広大な地域に軍を送り続け、全ての前線で苦闘していた。
日本軍首脳はサイパン島を守るために日本本土から派遣軍を組織し、さらに満州で対ソ連防衛警護にあたっていた精鋭部隊をサイパンに派遣することになった。そこには豊橋歩兵十八連隊が含まれ、大場栄は衛生大尉としてサイパンに派遣される。 続く
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