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Posted by 一平 - 2012.02.01,Wed

  Hi! みのり ニューヨークシティ・マラソンとその後ができた経緯                              

 中王子みのりさんがニューヨークシティ・マラソンに参加したのは二○○六年のことでした。視覚障がいと車椅子生活の二重のハンディをもった選手が完走したのは初めてであったことから当時マスコミにも取り上げられました。彼女はその後もマラソンを続けたかったのでしょうが、病魔が彼女を縛ります。この本はニューヨークシティ・マラソンからその後の出来事を、彼女が綴ったエッセーです。
 私がみのりさんと会ったのは手術の数か月後、新潟の温泉で行われた「『水俣』を子どもたちに伝えるネットワーク」の総会に一緒に参加した時でした。みのりさんは様々な福祉の市民運動に参加し、水俣病を伝える写真展では点訳のボランティアをしていました。
 私は障がいのある人と旅行するのは初めてで、駅ホームでのエレベーター探しと連絡通路までの不備を初めて経験しました。新潟までの道中、みのりさんは初対面の同乗者にもとてもお喋りでした。
 ニューヨークシティ・マラソンに参加した話、海外留学の苦労話、福祉行政の問題点など、その内容は面白く、たえず笑いが伴っていました。話の中でパソコンを駆使し、ホームページを開設しているともいっていました。
 翌朝の大部屋での朝食に私は彼女の隣に座り、何度か「これは美味しいね」と語りかけたところ、あいづちがないので、彼女を見てみると、彼女は彼女自身に話しかけられたことに気付かないようでした。「みのりさん」と呼びかけて話さない限り、彼女にとっては、私が誰かと会話していると思っているようでした。数十人が食事をしている雑音の中で、みのりさんは自力でお膳に挑戦していました。お膳には箸、ご飯、みそ汁、湯のみ、シャケ、山菜、漬け物、透明シートに包まれた海苔、改めて見てみるとなんと品数の多いことか。彼女はお膳の端から手探りで割り箸を持ち、小皿を探っていきます。割り箸の包み紙などかえって不便だなと思いながら、私は黙って朝食を食べました。彼女は時間をかけて食べ終えましたが、こちらも何か力が入ったのか、ホッとした思い出があります。私の知らない視覚障がい者の世界がそこにありました。
 新潟旅行の後、彼女のホームページを開いてみると、さっそく新潟の話が載っていました。視力がないのにどうやって文章を書くのだろうか? という疑問を持ちながら、数か年分を読んでみると、私たちには理解できない障害者の不自由さとトラブル、そういうところをとてもユーモラスに描かれ、視覚障がい者の現状を具体的に伝え、彼女は細い体で戦っていました。
 例えば、ヘルパーの移動介助制度の改善により、これからはお金がかかると言われた時、みのりさんは「たいていはここでみんな引き下がっちゃう。ここで引き下がらないのが私、ハッハッハ」と鉢巻を締めます。力みもあるでしょうが、納得のいかない福祉行政には障がい者の先頭に立って働きたいというみのりさんの決意を感じます。
 また、難病で歩くことが不自由になり、病院で新しい足の装具を付けて立った瞬間、みのりさんは「カクカク」と歩き、「げ! ロボットみたい」と笑わせ、同情する周囲の人への気配りを忘れません。
 こういった優しさや思いやりの言葉や病床から書かれた前向きな生き方は、私たちに何度もくじけずに元気に生きる大切さを教えてくれていると思いました。これはもっと多くの人たちに読んでもらうべき価値のあるものだ、と思いました。
  私の出版の勧めにみのりさんは「本を出すなんて」と暫くの間、固辞されましたが、友人の皆さんから「みのりちゃんの本は障がいの人も健常の人もみんなを元気にさせる何かを持っているよ、ぜひ、出版して」との声援があがり、本にすることになりました。

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Posted by 一平 - 2011.03.08,Tue
「TV番組でラブレターの存在を知り、書籍出版されるとのことでとても楽しみにしておりました。同じ本を竹野内さんの事務所にも送ってしまいました。
長い年月・手紙だけで栄さんを信じ、待ち続けられた奥様にはとても尊敬します。そして現代を生きている私など到底想像すらできない戦争、その悲しさ。
今の平和、そして私もダンナ様を大切にしようと改めて思いました。すばらしい本をありがとうございました。31歳豊橋市」

「義父が日中戦争に参戦したので特別な想いで興味深く読みました。私の誕生後の社会状況・世相など知ることができたと同時に『愛と戦争』のテーマについて考えさせられました。」

「戦時下と思えぬ、現代よりも情熱的。いや、二人の愛が戦争で無理矢理引き裂かれた。それ故、磁石のプラスとマイナスのようにお二人の生きる支えになっていたのではないでしょうか。我が家は結婚35年、考え方も似て、プラスとプラスのようです。たまには峯子様のような甘い言葉を聞きたいですね(笑)名古屋市60歳」

『すごく感動しました。ラブレターという、あの戦火の中でもこんな手紙のやりとりを続けられた二人の愛の強さを感じました。私も主人を亡くし、まだ半年早々ですが、九年間の手紙のやり取りを振り返り、共通点もあり、自分を振り返り、私の場合は主人の結核という病気のため山あり田にあり結婚まで九年かかりましたけど今はそれが力になっています。(75歳鹿児島市)」

『「戦火のラブレター」と「太平洋の奇跡」の両方読むと真意が若江宇。つまり「人類の平和」だと思います。』

Posted by 一平 - 2011.03.05,Sat
 中日新聞で紹介記事が掲載されると、朝から電話が鳴り止まないことも無いけれど、沢山あった。お年寄りが多く、決まって戦時中のことを話されるので、別の電話に出られないこともあった。どの話しも興味深く、それらの話しを伺うことで一冊の本ができそうに思った。
こういう本を良く出してくれたと、新聞記事を家族で読み回したと話してくれた人もいた。ご主人がサイパンで亡くなった方の言いしれぬ思いは70年近く続いていると思った。
大場栄は野戦将校の大尉にまで昇進したが、下級将校のことはほとんど知られていないから、資料を集めているという研究者からもあった。
読んだ方からの話し。
10代の終わり頃、豊橋歩兵十八連隊の近くにあった豊橋郵便局に務めておられた方から電話があり、手紙が見たいというので、会社に来てもらった。なつかしそうに当時の手紙をながめ、「機械的に軍事郵便のスタンプを押していたけれど、こんなに役に立っていたとは思わなかった」と話された。当時は海軍、陸軍など防諜のため宛先等は記号が多く覚えるのに大変だったそうだ。

出版意図が若い人がラブレターを通じて、戦争を知ってくれるのではとの思いには、大きな壁のようなものがあると感じた。
この本が中学生の課題図書に出もなればと思う。 続く
Posted by 一平 - 2011.02.24,Thu
 「今まで読んだ本で、ここまでピュァな内容の本はありませんでした。戦争を手紙を通じて知ることができたこと、二人の深い愛を知ることができたこと・・。とても感謝しています。文面で、気持ちが変わっていくのを読むとあらためて戦争の影響力を感じることができました。又,待つ方の辛さも相当なものだと感じました。当時の女性は本当に強かったのですね。多くの方々が亡くなられたので、複雑な心境だったとはいえ、家族に再び会えたラストは本当に良かったと思いました。すばらしい一冊でした。21歳学生」

「活字は少し小さめですが、行間のバランスや文体など読みやすくて、350ページと内容のあるボリュームを感じました。又、当時の新聞が綺麗で感動しました。本のオビにもありましたが、当時の様子を知ることのできる貴重なドキュメンタリーなので、学生をはじめとする、できるだけ多くの人に読んで欲しいと思います。」

「大場一弘教頭の退職後数人の同僚連中を伴って、近郊ドライブ、魚釣り・・・で楽しんだものです。一弘教頭も父大場大尉殿同様で寡黙な方でした。戦争や兵隊、軍人・父親のことは聞いたためしがありませんでした。一弘教頭が逝って、奥様とも疎遠になりましたが「太平洋の奇跡」で電話連絡がありました。」
Posted by 一平 - 2011.02.24,Thu
 読書感想が電話でも寄せられる。蒲郡町三谷小学校の教師であった峯子の教え子が峯子先生について、豊橋歩兵十八連隊で大場栄と一緒だったという人が歩兵の苦しさを・・・。手紙が70年前の記憶を引きずり出すように蘇らせ、そのことを誰に話したらよいのか、聞いてくれるであろうと出版社に電話が入る。日中戦争時代の十八連隊の動きは、書物も読んでもイメージできない。サイパンでは数日間で4万人近い日本兵が殺されていく現場をどうやっても思い浮かべることができないように、大場栄の属した豊橋歩兵十八連隊が7年間も中国大陸を転戦した様子は、戦争体験をしたものでないとわからない。戦火のラブレターに大場栄は実に具体的に戦場の悲惨さを書き残している。戦争は人を殺しあうことだ。毎日が生きるか死ぬか、の日々である。あなぐらで寝泊まりし、大根をかじって何日も過ごす。栄は敵兵士と殺し合った日本刀を何本替えたであろうか。手紙は実にリアルである。
しかし、転戦場所、移動方法が不明であった。
広大な中国大陸の日本兵は中国人民に囲まれ、監視されていた。十八連隊がいつどこに移動するのか?それを知るために野戦郵便局が狙われた。家族に送った手紙から移動先や日本軍の動きを知るためだからだ。そのため手紙には転戦場所や移動方法は書かれていない。伏せ字である。
電話をくれた人からそれらを知ることができた。移動のための偽装工作を行い、移動は深夜に近くの駅まで歩き、軍用列車の貨車にのり、何十㎞も窓を閉めっきったまま移動したという。つづく
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