Posted by 一平 - 2011.02.02,Wed
サイパンは小さな島であった。中央にあるタッポーチョという山に登ると、島の全景が見渡せた。北が日本、南のあの島がテニアン、その向こうがグァムと指さす美しい珊瑚礁の向こうに水平線が見えた。アメリカ軍が上陸するとき、この水平線は無数の軍艦に囲まれ見えなかったとガイドが説明してくれた。至る所に砲弾の跡があり、70年後の今でも艦砲射撃の凄まじさを見ることができた。印象的だったのは、南洋であるから椰子やバナナとツルなどに囲まれたジャングルを想像していたが見慣れた樹木草が生え、日本の山と変わらない気がしたことだ。尋ねてみると、サイパン守衛隊は日本から何種類かの穀物や植物の種を持って植えたそうである。
犠牲になったアメリカ兵の墓地は美しくと整理されていた。日本人犠牲者の慰霊碑や墓石が散在していた。硫黄島も、沖縄も、フィリッピンもそうだが、サイパンは日本人犠牲者が3万人なのか4万5千人なのか資料によって異なったままである。犠牲者の名前も数字も書かれていない本政府の建てた慰霊碑で合掌した。
サイパンの住民が万歳と言いながら身を投げたバンザイクリフやサイパン高等女学校の教師や生徒が身を投げた別の崖などは涙を誘った。
また、今では日本では見ることができない天皇の写真と教育勅語が納められていた奉安庫が在サイパン日本人の手によって、小学校跡地に保存されていた。 つづく
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