大場栄はサイパンでは有名で、ガイドは映画の原作「タッポーチョ」を読んでおり、映画「太平洋の奇跡」が上映されることも現地の日本語フリーペーパーで紹介されていた。さらにこの映画によってサイパンの観光客が増えることを期待していた。サイパンは日本人の観光客が減少し、替わりに韓国の若者で賑わっていた。サイパンでは韓国人犠牲者も多数おり、日本とは別に立派な慰霊碑が建立されていた。
サイパンには至る所に戦時を伝える観光掲示板があり、何カ所かで大場栄の活躍が掲示されていた。サイパンでの日米両軍激突の記録は米軍が管理している戦勝メモリアル記念館の試写室でビデオを見ることができた。記念館にはアメリカ人にとってのサイパン戦の軍事的意義と米兵がいかに果敢に戦ったかをビデオとパノラマや写真、実物が展示されていた。
そこには大場栄が山を下りて降服したときの写真が展示されていた。
大場栄が山から整然と行進し、待ちかまえる米兵に停戦の印として、軍刀を渡している写真であった。久充さんはその前で記念写真を撮った。大場栄の息子が来館したことを、館の責任者が喜び、記念にと勲章のようなメダルをプレゼントしてくれた。
メモリアル館には英文の本の中に日本語の本が売られていた。そこで、ジョン・ダワーの書いた「敗北を抱きしめて」(岩波書店)を購入した。
帰国後それを読み、色々と考えさせられることが多くあった。
サイパンは小さな島であった。中央にあるタッポーチョという山に登ると、島の全景が見渡せた。北が日本、南のあの島がテニアン、その向こうがグァムと指さす美しい珊瑚礁の向こうに水平線が見えた。アメリカ軍が上陸するとき、この水平線は無数の軍艦に囲まれ見えなかったとガイドが説明してくれた。至る所に砲弾の跡があり、70年後の今でも艦砲射撃の凄まじさを見ることができた。印象的だったのは、南洋であるから椰子やバナナとツルなどに囲まれたジャングルを想像していたが見慣れた樹木草が生え、日本の山と変わらない気がしたことだ。尋ねてみると、サイパン守衛隊は日本から何種類かの穀物や植物の種を持って植えたそうである。
犠牲になったアメリカ兵の墓地は美しくと整理されていた。日本人犠牲者の慰霊碑や墓石が散在していた。硫黄島も、沖縄も、フィリッピンもそうだが、サイパンは日本人犠牲者が3万人なのか4万5千人なのか資料によって異なったままである。犠牲者の名前も数字も書かれていない本政府の建てた慰霊碑で合掌した。
サイパンの住民が万歳と言いながら身を投げたバンザイクリフやサイパン高等女学校の教師や生徒が身を投げた別の崖などは涙を誘った。
また、今では日本では見ることができない天皇の写真と教育勅語が納められていた奉安庫が在サイパン日本人の手によって、小学校跡地に保存されていた。 つづく
本の出版予定を聞いていたので、彼女たちから色々と質問された。
おじちゃんとおばちゃんはいつ頃から付き合っているの?と最初に聞かれた。
私は1941(昭和16)年9月にみね子が栄に宛てた手紙のことを話した。
「栄が1934(昭和9)年に最初の満州からの演習で釜山に寄った時の出した手紙で、栄は『爪が長くなって汚れても切る鋏(はさみ)も無い』と書いてきた。峯子は『あの頃は貴方の爪を切って上げるのをこよなき楽しみにいたし、一本々々に指をどんなに胸をときめかせて握りしめた事でしょう』と書かれているから、栄が19歳の頃から付き合っていたと思う」と答えると「ワァ」と歓声のような声があがった。「二人の手紙はラブラブで、特にみね子の方が情熱的で、読む方が赤面するようなことも書かれている。文章がうまく、こんなに好きな二人を早く結びつけてあげたいと思ってしまう。と答えると、再び「ワァ」と声があがった。すでに70代のおばさん達であるが、身内のこういう話しは大好きだと思った。
息子である久充さんもこの話に加わって、手紙を読んだが、二人の印象がすっかり変わった」と言った。終戦後のみね子は手紙に出てくるお嬢さんのようなイメージではなく、農業で鍛えられた働き者のおばさんという感じであった。栄もそうで、戦場での兵士の姿は全くない普通のおじさんであったそうだ。
私は「一人息子一弘のことを教えて欲しい」と尋ねた。一弘が生後七ヶ月の時に大場栄は徴兵されている。栄にとって戦地に向かう軍用列車に言われたまま小旗を振り続ける一弘がどれ程いとおしかったであろうか。手紙には歯が生えた、這えだした、歩き始めた、お父ちゃんと言えるようになった、軍人の真似をして遊んでいると、どの手紙にもその成長記録が書かれている。子供の成長を戦地の栄がどれ程喜んだか、その喜びは文面にあふれんばかりに感じられた。峯子も一弘が父ちゃんと言えるようになった。歩けるようになったと事細かに綴っている。一人息子を抱くことが出来ず、一弘を自転車に乗せることが夢であった栄が一弘と共に過ごせるようになったのは、一弘は小学校にあがるまえであった。
一弘さんは平成になって亡くなっているためお会いすることは出来なかったが、少年一弘はその後どうなったか、とても興味があった。従兄弟達は「一弘は六歳になって満州海城に引っ越しする時、軍刀を肩に提げて行った」と聞いていた。
そのことは手紙には出てこない。軍刀は将校以上が携帯できるもので、栄は手紙の中で何度も軍刀を失い、新しい軍刀が欲しいと催促している。中国製は切れが悪いから、日本で調達して欲しいというものだ。
峯1942(昭和17)年末、峯子と一弘は新しく満州海上に出来た歩兵18連隊の宿舎に引っ越している。二人は蒲郡から下関、下関から船で8時間かけて釜山に、釜山から海城まで約25時間かけ、寝台車を利用した三日がかりの引っ越しをしている。幼稚園児の一弘が軍刀を背負って汽車に乗ったのである。その一弘が母親と長距離列車に乗ったとは、新しい発見に嬉しくなった。
もう一つ聞きたいことがあった。
峯子の父は三谷町長であった。父は昭和14年に蒲郡から満州に開拓村に移住した家族を愛知県代表の一人として慰問に行っている。帰りに満州名産黒ダイヤの指輪を三人の娘達にお土産としたことが手紙に書かれている。その話しをすると孫である菊江の娘が「あるけど、模造品みたい」と答えた。それでも母の形見として保管されていたのであろう。続く
●太平洋の奇跡の島 サイパンへ
奇跡はあるのであろうか? 人は時々「奇跡よ、起きろ!」と祈る。ところが、人々の望みはほとんど叶えられない。奇跡は起きないものだからだ。しかし時として起きるのである。
2011年11月奇跡が起きようとしていた。チリの鉱山で生き埋めになった抗夫33人がいつ生還できるか、世界中が固唾をのんで注目していた。そのニュースを聞きながら、70年前に奇跡が起きたという現場サイパンに向かった。
大場栄のサイパンでの活躍が映画化されることになり、例年行われている大場家の「いとこ会」がサイパン行きとなり、私はそれに合流したのである。
サイパンは日本民族が東北系、南洋系、大陸系と区分されるときに、南洋の人々がマリアナ諸島と呼ばれる島々をわたりながら日本に辿り着いただろうと思われる島々の日本に一番近い島である。戦前は日本を代表するサトウキビの生産地として多くの日本人が移り住んでいた。
この島が第二次世界大戦終盤に重要な位置を占めることになった。将棋で言えば「王手」で、島がアメリカ軍のものになるか、日本軍が占拠し続けるかが、後の勝敗を決する決定的な「駒」となった。
アメリカ軍はB29という大型爆撃機を製造しつつあったが、まだ飛行距離が短かった。日本本土で空襲を行い、Uターンして戻る飛行場基地が必要であった。グァム・サイパンから発進できれば日本本土を空襲し飛行場に戻ることができた。
日本軍首脳もそれを予想し、これらの島を、太平洋の防波堤と名付けた。地図を見ると、南太平洋から大波になって押し寄せるアメリカ軍をこの島々が堤防の役割を果たすだろうと考えた当時の日本軍首脳部がよく理解できる。
グァム・サイパン島は何をおいても死守しなければならなかった。しかし、日本軍は広大な地域に軍を送り続け、全ての前線で苦闘していた。
日本軍首脳はサイパン島を守るために日本本土から派遣軍を組織し、さらに満州で対ソ連防衛警護にあたっていた精鋭部隊をサイパンに派遣することになった。そこには豊橋歩兵十八連隊が含まれ、大場栄は衛生大尉としてサイパンに派遣される。 続く
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